大洲加藤家は6万石と小藩ながら、鎌倉時代から続く、格式の高い家柄である。
下井家はおよそ300年間、加藤家6万石に仕えてきた大洲藩士であり、
墓の歴史は400年になる。
初代九郎左衛門は大洲加藤家の2代目、加藤泰興(やすおき)公に400石で仕え、
大洲下井家の家祖となり、隠居後、70余年の生涯を大洲で終えた。
二番目の主君・加藤清正公は秀吉の命令で朝鮮に出兵して、そして敗れた。天下分け目の
関ヶ原の戦でも西軍は敗れ、時代は豊臣から徳川に移っており、夢破れた初代九郎左衛門は
四国・大洲へ旅立ち、だからお墓も控えめに小さく作ったのだ、と推測している。
400年の先祖の眠る大洲の山河は謂れのない麗しさに満ちており、伊予の小京都とも呼ばれ、歴史と風景が相乗して、江戸時代のまま時間が止まったような町である。
臥龍山荘、大洲城、冨士山(とみすやま)を映す、肱川の流れ・・。
九州からの長旅を終えた、初代九郎左衛門一族は、この美しい大洲盆地の山河に抱かれ、
やっと安堵できたのではないだろうか。以来、九郎左衛門の子孫は代々、
400年間、肱川や冨士山(とみすやま)を眺めながら、自宅と大洲城を往復することになる。
明治時代、喜多郡長・下井家九代目小太郎本宅。
通行人は和服姿だ。電柱も電線もない。
左の建物はその後、養蜂の巣礎製造所になり、常に蝋の臭いが漂っていた。現在は愛媛信用金庫になっている。土蔵も新しい。背景には城山と大洲城が見える。
戦後、我々下井憲二郎家族が住むことになる別荘から撮影したものと思われる。下井盛夫の住居である新宅はなく、樹木の生えた斜面のままだ。恐らく肱川橋も存在せず、殿町開発以前の風景だ。
下井本宅は現在料亭「との町たる井」になっている。オーナーの女将は私の幼馴染だ。
歴代下井家では9代目小太郎の記録が多い。
明治2年(1869年)藩命を帯びて東京大学の前身である開成所で
英学を修め、明治4年(1871年)慶応義塾で経済学を修める。
慶応義塾在学は(明治2年~明治4年、1869~1871)であり、
小太郎22歳~24歳、諭吉34歳~36歳であった。帰藩後、福沢諭吉の助力を得て、明治5年(1872年)大洲英学校を設立。大洲英学校は後、愛媛県立大洲高等学校となる。
下井小太郎(勝八)慶応義塾大学名簿
小太郎翁百歳の書
(資料提供:大藤恭子氏)
下井家の菩提寺は寿永寺(大洲市西山根)であり、墓地はこの寺院内(山)にある。
初代九郎左衛門から11代目武夫の妻、下井冨志まで400年間に亘って埋葬されてきた40体の遺骨の数は今後、増えることはないだろう。戦国時代、江戸時代、明治維新、そして現代までの400年間を大洲で生き抜いてきた、大洲下井家ご先祖の諸霊に冥福を祈りたい。
長年、殿町在住の東原弘泰氏にお墓の管理をお願いしていたが、現在は代行業者に依頼している。